「笑ってない?」 増し加わる不安の中で 創世記18章9-15. 三位一体の主日
6月9日、ジョージフロイドさんの葬儀がヒューストンのペアランドという町で行われました。
今回の事件は、アメリカの抱える人種問題が根本にあって、それが全然解決していなかったことをはっきりさせました。
しかしこの問題は白人と黒人、アジア人などの人種間だけではありません。日本人と外国人、東京の人と、地方の人、大阪の人、それぞれ差別をしています。大卒とそうでない人、お金持ちとそうでない人、、、人を差別し、人を下に見るという傾向は私たち誰もの内に潜んでいるのです。しかも差別されているからそれを変えなければならないと訴える人が、人より上のポジションに立った時、いつの間にか差別する側に回ってしまうというのはよくあることです。
このことは、誰もがそういう壁を作る傾向をもっているという事、それはかなり人間の本質的な部分にある事を示唆しています。
聖書は、これを敵意があるからだと特定したうえで、それを打ち壊せるのは、キリストだと言っています。
「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、」エペソ2:14
私たちの信じている神は、三位一体の神です。父と子と聖霊は互いに愛し合っており、壁はないのです。そしてすぐ壁を作る私たちのために、祈ってくださっています。そしてあなたを3人のこの交わりに加わるように、招いてくださっています。
1、人は笑う
本日の聖書個所で、3人の人がアブラハムとサラを訪れます。この3人の人に象徴される三位一体の神様が、アブラハムとサラに、来年あなたたちに子供が生まれるよと、良い知らせを伝えます。
それを聞いたサラは心の中で、くすっと笑ったんです。
サラは心の中で笑って、こう言った。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」創世記18:12
でも笑ったのは彼女だけではありませんでした。
実は、アブラハムは以前にも主の訪問を受けて同じことをしていたんです。
創世記の17章アブラハム99歳の時に、主が現れと書いてあります。
この時、彼の名前はアブラムという名前でした。
讃えられる父、という名前でした。それがアブラハム、すなわち多くの国民の父という名前に変えなさいと、神様から言われたのです。国家の父おやになるようなことを言われたのです。
名前は本質を表すと言いますが、そんなことを言われても、困ってしまうのです。
アブラハムは、神の前にひれ伏しながらも、笑ったのです。そんなことがあるはずはない。
サラはその時90歳、アブラハムは99歳、もう常識で考えて、子供を産める年ではありません。サラは、アブラハムと結婚して、ずっと子供に恵まれませんでした。
当時は子供の産めない女の評価は非常に低かったのです。周りの人からどういわれてきたか、サラはそういう社会の目を忍んできていたのです。
苦しみを受けてきたのです。
自分の体のことは自分が一番よく知っていると思っていたのです。
だからいくら何でも、神様でもそんなことがあるはずがない。
サラは笑ったのです。
笑いについて
ベルグソンというフランスの哲学者が笑いについてこう書いています。
1900年に発刊されたその著において、
第一に、「本当に人間的であるものを除いては、おかしさはない」といっています。つまり滑稽なものを見て笑うというのは、そこに人間との結びつきを見て取らなければ笑いは生まれないという事です。
老齢になった男と女から子供なんか生まれない。というアブラハムやサラの思いは、まさに人間的なところからきているのです。笑いというのは、人間にユニークな事であり、とても人間的なものなのです。
第2に、知性的な働きであり、そこには感動はないと言います。そこに愛、憐憫、感動などがある時には、笑いは生まれないのです。お笑いタレントを思い浮かべてください。
きつく切っていく感じを覚える方は多いと思います。つまり笑いというのは、人間に関するものであり、極めて知性的、理性的なものなのです。理性的という事は、切っていくという事です。分けていくという事です。つまり分断することなのです。
サラは、人間に特有の分断をしたのです。自分と自分の周りの人間との分断、そして自分と神の間の分断。サラも壁を作ってしまったのです。
2 人間はうそをつく
神様は、そんなサラの心を読んで、言われました。なぜ笑うのか?
それを聞いて、 サラは否定しまう。笑ってなんかいません
神の前で、よくうそをつけたと思いませんか。でもこわさのあまり、うそをついたのです。
神が怖いから、事実をゆがめてしまうのです。
子供のころを想ってください。
家にある食器をこわしてしまったとき、親にこれをこわしたでしょうと言われたとき、してないよといいたくなったことはありませんでしたか?
自分が間違ったことをしたと言ったら、叱られる。そういう恐怖から。うそをつくことがありますね。
恐怖の前では真実はどうでもよくなってしまうのです。
恐怖の前では私たちの真実は、あいまいになっていくのです。恐怖を感じるから嘘をついてしまう
私たちもそのような経験をした記憶はありませんか。絶対うそをついたことがない人がいますか。
親から、叱られるとき、--したでしょう。といわれて、したのに、怖いから、僕はしてないよ、と言ってしまった記憶がありませんか。
怖さを優先すれば、うそをつくことになる、真実を優先すれば怖さに襲われる。
逃げ場がないのです。
サラは、こう指摘された後、どう思ったことでしょう。
否定のできない事実を指摘されたのです。自分の心の動きを見なよマれてしまったのです。
気まずい思いにさいなまれたのではないでしょうか
これが人間です。
3、それでも神様は良い知らせを(祝福を与える)ために必ず訪れてくださる
人は神の言葉を笑うし、嘘もつきます。
それでも、神は約束を変えないのです。
来年の今頃あなたのところに戻ってくる、と繰り返し言っているではありませんか。2回も繰り返しているという事は大事な事なんです。
次の年、どうなったでしょう。創世記の21章1節に、イサクが生まれたことを記述する箇所に、「主は告げられたとおりにサラのために行われたとあります。だから、主は約束されたとおり、サラに現れたのです。そして子供が生まれたのです。
事実翌年になると、アブラハムとサラの間に男の子が生まれます。
生まれた子供はイサクとなずけられます。
主は、何のためにサラを訪問したのでしょうか。
子供が生まれるという事を伝えるためですね。
良い知らせをつたえるためです。
そして神は、子供が生まれる時、なぜ戻ってくるのでしょう。
その子を祝福してくださるためではないでしょうか。
神様の特別の祝福を、主は祝福を用意してくださっているのです。
90歳のおばあちゃんに子供が生まれたのです。顔をくしゃくしゃにして喜んだのではないでしょうか。神様に感謝したのではないでしょうか。
今日歌った、 Amazing Grace
これを作詞したのは John Newton、1725ロンドンで生まれました。19歳の時に、メアリーという女性に恋をして会いに行きます。でもその途中でギャングに入らされてしまうのです。ギャングの掟は厳しく、食べ物もろくに与えられませんでした。そして18世紀、悪名高い奴隷船の乗組員になってしまいます。アフリカから奴隷を連れてくる途中で、多くの奴隷が亡くなります。でも彼はお金持ちになっていきます。彼は信仰を馬鹿にして、乱暴な行動で有名になっていきました。
1748年グレイハウンドという奴隷船に乗っていました。嵐が襲ってきました。そして船は壊れ初め、浸水してきました。一晩中、水を汲みだしていました。その時彼は死を考えました。これで終わりかな。彼は神様を馬鹿にしていたことを思い出しました。こんなにひどいことをしてきた彼でも、神様は赦してくれるだろうかと、ふと思いました。彼が7歳の時に亡くなっていた母が教えてくれた聖書を思いだしたのです。神様はどうしようもなく神様を退けていた人をも愛してくれると。彼はその時神様に祈りました。そして、何とか港につくことができました。生き延びたのです。
すぐには変わりませんでした。でもニュートンは祈ることを始めました。そして奴隷船の仕事を辞め、牧師になります。そして書いたのが、自伝ともいうべきAmazing Graceでした。
神様は今も生きて働かれていますから、神様はよい知らせを知らせるために
皆さんをも訪れてくださいます。
きづいていないだけかもしれません。
神様ご自身でなくでも、神の使いが訪れているのです。
それは、長い間連絡の取れなかった人から連絡かもしれません。
また出会いがあるかもしれません。
神様を期待して、目を開いていてください。
そして先週話したように、出会ったかなと思ったら、しっかりと走って行って捕まえることです。
4、神の一方的な計り知れない恵み
18:14 【主】にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」
事実99歳のご主人と90歳の女性からイサクが生まれます。
でもそれだけではありません。不妊を解消したというだけではありません。神様は責任をもって最後まで面倒を見てくださるのです。神がどんなに長い時間を見ておられるか 想像してみてください。
主は生まれたイサクとともにいて、イサクを祝福し、守るとともに、イサクを通して祝福が人びとに与えられます。そしてイサクからヤコブ、ヤコブから、イスラエルの12部族へと祝福は引き継がれていきます。そしてイエスキリストへと祝福は続きます。そしてイエスを信じるなら、私たちにも祝福が注がれるのです。
神は私たちが神様を小さく考えたり、うそをつくのを知ったうえで、愛してくださる。祝福してくださるのです。そして最後まで責任をもって面倒を見てくださるのです。
これが恵みです。神様は人間の冷たさ、恐怖に満たされば、真実も曲げてしまう頼りなさ。信じない心、それらをすべて受け止めたうえで、なおも戻ってきてくださるのです。人を救うために、戻ってきてくださるのです。人を祝福して本当の命を与えるため戻ってきてくださるのです。
ある牧師がこんな話をしてくれたことがあります。
彼は 食事にいきました。知り合いの家族が食事をしていました。食事が終わってレジに行きます。チェックをもらえますか。心配しないで。
じゃあ、チップだけでも、それもいただいています。全部支払い済みです。
家に帰って、早速のその家族に電話しました。そして半分払わせてくださいといいましたが、柔らかく断られました。
また数か月して、教会のメンバーがクリスマスプレゼントをしたいと言ってくれたそうです。牧師の家の窓を全部洗うと言ってくれたのです。気持ちだけでいいよ、そんなことしなくても、といったりしながら、断ろうと思いました。お願いします。というまで、かなり苦労したそうです。
そしてその方が洗ってくれている間、その牧師は、家の中を行ったり来たりして、どうやってお礼をしようかと考えてばかりいたそうです。
完全にただのものを受け入れるっていうのは、大変なことです。どうしても裏があるんじゃないかとか、何か返さなければと思ってしまいます。
でも神様の恵みっていうのはそうなんです。私たちあての伝票を自分で取ってくださり、全部払ったよ、全部やったよといってくださるのです。私たちができるのは、それを受け入れることです。そんな方を信じることです。
私たちの主は恵みを下さって、私たちを救ってくださいます。分断を取り去って、平和を与えてくださるんです。
今日引用したエペソ人への手紙2:14にかかれている、キリストこそ私たちの平和である。というときの平和。ギリシャ語で、eirḗnē といいます。 – これはwholeness, です。例えば家族で一緒に食事をする。みんなが一緒になる、このイメージです。
この本当の平和は神様にしか与えられない、それは、決して分裂や対立、差別のないかけのない、全体なのです。神の平安です。
神様の恵みの前に、素直な自分を出して、神様についていきませんか。
笑っていませんか?神様はそれでも来てくださいます。祝福を与えに来てくださいます。神様にしか与えられない平和を与えてくださいます。
信じられないと思うなら、祈ってみてください。必ず、祈りは聞かれます。