ホレブはどこにある 出エジプト記 17章1-7 3-29-20
1. 荒野を旅しているイスラエルの民は、レフィデムという場所に来ます。
そこで、また水が不足します。民は、また不平を漏らします。
私たちも同じだと思います。ある時、神様から祝福を受けて、ああよかった。神様ありがとうと思ったのもつかの間、また水がないとなると、一気に不安になるのです。
信仰の薄いものなのです。
1、私たちから出てくること
モーセは民の問題を2つにまとめます。なぜ私と争うのか、なぜ主を試みるのか。この2つが重要です。7節に改めて書かれています。
1)争うということ
そうです。水を与えよというのは、ただのお願いではありません。
イスラエルの民が、怒り狂っていることは、モーセが自分を石で打ち殺そうとしていると訴えているところからわかります。これは収拾できない混乱状態です。
争い、人々は苦境に陥ったとき、争いに走ります。
とにかく、自分のトイレットペーパーを取らないとと争うのです。
2)主を試みること
私たちの内に神はいてくださるのか。神は遠く離れているだけなのではないか。自分たちの窮状を知っておられるのか。もしいるなら水を出してみよ。そういう事です。
この石をパンに変えてみよと、悪魔がイエスを試みたように、イスラエルの民は、神を試みているのです。
私たちは、どうでしょう。困ったときに、水がない水を与えよと神様に言ったりすることはあります。これは神を試みることなのでしょうか。素直に困っていることを告白してはいけないのでしょうか。
神が私たちとともにいることを疑うかどうかがカギになります。
内におられる神様に困っていることを伝える。それはいい。
でも神様、本当にともにいてくださるんだったら、証拠を示してください。
疑いをもつかどうか、信じられないから証拠を示せ。この違いです、
モーセは神にふたたび叫びます
そんなモーセに、神は、ナイル川を打った杖をもって、ホレブの山に行けというのです。そこで神様が立ってくださり、その岩を打てば水が出るというのです。
2、神様のしてくださること
1) 神の杖
神はモーセに神の杖をもって、民の前を通るように指示されます。
神の杖、これは紅海を開いたときに使われもので、神の力を象徴しています。
神の力を民の前に示すのです。
困ったときには、神の力を思い出すことです。
神の過去の奇跡を思い出すことです。
モーセは神の杖を使って、水を出すことができました。
私たちにも神の杖が与えられています。神の力を象徴するものです。聖書であり、祈りであり、仲間との交わりです。神の杖をいつも持っていましょう。神の力が出てくるきっかけになるものをいつも持っていてください。決して手放さないでください。そこから神の力は発揮されるのです
2)ホレブの岩
モーセはイスラエルの長老らを連れて、レフィデムに人々を残し、ホレブまで行ったのだ。そして言われたとおりに、そこの岩を打つと、水が出てきました。そしてそこで水が出て、川が流れ出たのです。人々はその水を飲みました。
ホレブの岩というのは、何を意味するのでしょう。
神が人と会う場所
ホレブは、実はモーセが最初に神と出会った場所でした。
出エジプト記3:1
モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。
ここで、燃える芝の体験とともに、モーセは神と出会ったのです。
神と会うという事が大切なのです。
人々は、神があってくれることを信じません。
だからこそ、神を知っているものが神に会い続けることが大切なのです。
神が人々と契約をする場所 シナイ山
さらにこのホレブという場所は、シナイ山を含む山塊のことだということがわかります。
申命記5:2で モーセは神と民が結んだ契約、十戒についてこう言いました。
私たちの神、【主】はホレブで私たちと契約を結ばれた。
出エジプト記19章で、イスラエルの民は、レフィデムを出てシナイの荒野に入ってモーセがシナイ山に上っていくという状況になります。そこで神は人々と契約をされたのです。
神が人々と契約をしてくださるのがホレブです。私の言葉を守るなら、あなたを守る、、、
私たちにとってのホレブ
先ほどの出エジプト3:1でミディアンの祭司の羊を飼っていたモーセはホレブにやってきたと書かれています。
ホレブというのはどこにあるのか 地図を見てみましょう。
こんな遠くまで、紅海を渡って、あるいは大きくう迂回してモーセは移動したのでしょうか。ホレブはシナイ半島の南にあるというのが定説です。
ホレブはどこにあるのでしょうか。
私たちにとってのホレブを考えてみましょう。
ホレブというヘブライ語の意味は、かがやきとか、熱、太陽という意味にもなりました。神の臨在がみられるところには、シャカイナグローリーがあるといわれます、神の栄光です。まさに神がおられることを示してくれる場所です。
アメリカには、Mt Sinai hospitalがたくさんありますが、この名前はここから取られています。この病院では神様と会える、癒し主である神様と会える、そんな願いを込めてつけられたのではないでしょうか。
神様と会える場所が、シナイ山であり、ホレブなのです。
神は私たちの内におられる
イエスキリストを信じる者には聖霊が与えられます。聖霊様を受け取った人たちには朗報があります。神は私たちの内におられるからです。この真理をまず思い出してください。私たちの内で、神はあってくださるのです。でも私たちは肉体を持っています。ですから物体にとらわれてしまうのです。ですから、私たちも神と会える場所を覚えておくことが必要です。皆さんの神と会う場所はどこですか。寝室、教会の部屋、祈りの部屋。それを意識しましょう。神は必ず恵みを与えてくださいます。
岩を打つ
モーセは岩を打ちました。紅海の時は、海を打って、海が割れました。今回は岩を打って、水が出てきたのです。
岩の下に水脈があったということかもしれませんが、これは単なる奇跡ではありません。岩である主を打つという事です。
パウロは、イスラエルの民がレフィデムで経験したことを次のように説明しています。
Ⅰコリント10:1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。
10:2 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、
10:3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、
10:4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。
私たちの主、神は私たちがよって立つ岩です。イエスキリストは私たちをゆるぎなく立たせてくれる岩盤なのです。そのイエスキリストを打つという事です。人に打たれることによって、主は、人々の渇きを満たしてくださるという事なのです。ここにイエスの痛みを感じてください。
主を自分の思い通りにしようという民の意図。それは神を試みること、神を試すことになります。それは神のことをよく知れば恐れ多い事、そんな民は裁かれても仕方がないのです。私たちは神を試みる誘惑をいつも受けています。
困難なとき、神を試みる誘惑を受けているのです。
でも神は、そんな民のそんな勝手な要求に対し、自らを打たせ、その結果水を与えるという方法を取られたのです。
すでにここにイエスキリストの十字架がしめされているではありませんか。
ホレブの岩である主は自らの体をもって私たちを守り養ってくださるのです。
ヨハネ10:11
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
みこころにかなっているか
神は憐み深い方ですから、身を削ってでも私たちの必要を満たしてくださいます。しかし
いくら教えてもみこころにかなわないものはそれなりの対価を支払わなければならないのです。第一コリントの先ほどの個所の先でパウロは言います。
10:5 しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
そしていうのです。
10:6 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。
イスラエルの多くの民は、悪をむさぼったから滅ぼされたと。
私たちはそういうことをしないように。
不安な時に、どう対応するか。不安な時に悪が出てきやすいのです。
争うな。キリストを試みるな
神様を信じ続けることです。
神は脱出の道を備えて下さる
そして、パウロはさらに続けて言うのです。
10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
魂をリストアすること
Stay home Work safeとい指示が出て、家にいる時間が長くなります。通勤時間は無くなります。夫婦も家族も一緒にいる時間が長くなって、どうしようという人も出てきます。生活の構造が変わってしまいました。この新しいニューノーマルにどう対応していくか。
神様は何をお考えになって、このようなこと赦されているのであろうか。一体いつになったら、感染者は減少していくのか。
私たちは、悪魔が私たちを不安に陥れ、苦くさせようとしていることも知っています。
これは一時的なものではないような気がします。
神様は、確かに悪魔の策略を赦していらっしゃいます。私たちは前代未聞のストレスを受けています。心がやんでしまう可能性を抱えています。でも神様はどんな過酷な状況においてもご計画をお持ちです。そして脱出の道を備えてくださいます。
これは私たちの生き方を見直して、今前の過ちから脱出するきっかけなのかもしれません。家にいる、家族と過ごす時間が長くなる、娯楽も減る、外食も減る、このような状況の中で、私たちの生き方をもう一度思い返す、、、
詩編23の中に、こんな箇所を思い出します
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに私を義の道に導かれます。
わたしの魂を生き返らせ、
生き返らせという言葉は英語でリストア、元に戻す。死にかけていた魂をもとの生き生きとした状態に戻す。
体を守ることも大切ですが、この状況の中で、魂を生き返らせるという事を意識することが求められているのではないでしょうか。
神様は、悪魔のこの攻撃を許す中で、私たちをリストアさせようとしているのではないか。
マタイの個所も思い出してみましょう。
マタイ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
メンデルスゾーンという作曲家を知ってますか。
彼がある時ヨーロッパのある小さな教会を訪れました。その教会では新しいオルガンをちょうど購入したところでした。そのオルガンの管理を任された男は、メンデルスゾーンが入ってきたとき、誰が来たのか知りませんでした。
メンデルスゾーンはその男に言いました。
すみません、このオルガン引かせていただいてもよろしいでしょうか。
男は言いました。「あ、いや、それはお断りします。これはつい先日購入した新品で誰でも引かせるわけにはまいりません。
そこを何とか、メンデルスゾーンはいいました。
いえ、ご理解いただいていないようですなあ。これは何百万も出して買ったものなんです。弾いていただくわけにはまいりません。
何とか少しでも弾かせていただけないでしょうか。
しつこいですね。わかりました、1分だけですよ。
メンデルスゾーんはそのオルガンを弾き始めました。
その男が聞いたこともないような甘いメロディが教会にこだましました。
こんなに美しい音楽を聴いたこともありませんでした。
弾き終わったとき男は聞きました。
失礼ですがお名前をうかがっても、、、
メンデルすぞスゾーンは自己紹介しました。
その男はメンデルスゾーンの名前は聞いて、唖然としました。
誰が彼の前に立っているのかを知って慄然としました。
そしてメンデルスゾーンに弾いてもらうのを拒んだ自分を恥ずかしくなりました。
この教会に誰がいるのか知らなかったのです。
私たちも神様の臨在の力を認めないことを、そして神様にその力を発揮していただいていないことを恥恥じるべきではないでしょうか。
教会は神の宮であり、私たちの体です。
神は私たちの内におられるのです。神のホレブ、かがやきは私たちの内にあるのです。
今かがやきを忘れずに、
この困難の中にあっても、私たちの内にいらっしゃる神様から決して目を離さないでください。神様が私たちを守ってくださり、導いてくださります。人と争わず、主を試みず、この機会を自分たちの生活を神様の御心によりかなう形に変える機会ととらえ、神様の平安を守って、この荒野を乗り越えてまいりましょう。