「神様は来られている」 4-5-20 Palm Sunday
これから、イエスの最後の1週間になります。Palm Sundayです。木曜日は弟子たちと最後の晩餐をされます。金曜日はイエスが十字架につけられる日であり、日曜日は復活されるイースターです。:
これからイエスキリストが、十字架にかかる前に、エルサレムに入ったことを記念する日です。
イエスはロバの子に乗ってエルサレムへ入ります。人々は命の木の象徴であるナツメヤシの枝を敷いて、そして葉を振って、イエス様の入場を祝います。これからはイエス様を王様として生き生きと存分に命を楽しめる。でもイエス様はエルサレムを見て泣かれました。そしてエルサレムにはいた後、宮にいた商売人立ちを追い出しました。
エルサレムの入城というのは、ただ喜ばしいというだけのことではないのです。
エルサレムに入城について改めて考えてみましょう。
1、弟子たちの讃美の言葉
19:37で弟子たちはオリーブ山を下っていく時、と書かれています。
まず地形を確認しましょう。オリーブ山からきドロンの谷に下りて、そしてまたエルサエムに上っていくのです。
私たちは上る時はハアハアと息を吐きながら登ります。でも降る時は力が入ったように思いますね。
弟子たちもそうだったのでしょう。
自分たちの力が発揮できる、そんな期待を持っていたことがわかります。
事実、19:38節の讃美ですが、ルカの2章、イエスが生まれた時、天使たちが歌った賛歌を少し変えています。ルカの2章の天使の讃美は、天には栄光、地には平和となっていましたが、(これはクリスマスの時に言われる言葉です。
でも、ここでは、天には平和となっています。
この弟子たちは何を期待していたのでしょう。
地には平和がないことを暗示しているのでしょか 恐らくそうでしょう。
これから革命を起こす。そんな血気盛んな弟子たちだったのではないでしょうか。悲しいことです。
彼らは平和どころではないのです。この時のエルサレムは、イエスというカリスマのリーダーを掲げて、大きな社会運動が始まるという予感にあふれていたのです。だから、そこには当然平和という言葉は必要ではなかったのです。
人間は平和を求める動物ではないのかもしれません。
ここで、使途パウロの言葉に耳を傾けましょう。
キリストが私たちの平和だと言っているのです。
エペソ2:14 実に、キリストこそ私たちの平和です。
イエス様は地上に平和をもたらす方なのに、
しかもその方法は十字架でした。イエス様は事前に何回もそのことを示すことを語られていましたが、その後1週間もたたないうちに、そのイエス様が十字架にかけられることを予想していた人はほとんどいなかったのではないかと思います。
私たちの思いは、えてして、神様の思いと全く異なるのです。
自分の思いが、イエス様の考えを隠してしまうのです。
私たちの思いがイエス様の思いを隠すという経験をしたとはありませんか。
このことに気を付けたいと思います。
エルサレムに王が来る というのは、私たちにとってどんな意味があるのか
旧約聖書ゼカリヤ書の9:9に、 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
という予言があります。
今まで私たちは、荒野を歩んでいるという事を見てきました。荒野の歩みは目標があったのです。
荒野をさまよっていたイスラエルの民は、神が示される約束の地を目指していました。
神様はアブラハムに自分が示す土地へ行けと命じられました。そこに行けば私はあなたを祝福すると約束されたのです。
それはカナンと呼ばれていました。
カナンというのは、現在のイスラエルのあたりの土地です。そしてその中心はエルサレムなのです。
だから、人々が目指すべき約束の地はエルサレムだったのです。
人々は約束の土地に到着したのです。そしてあとは何があればよいでしょう。
人々を治める王が来れば完成です。
約束の地に人々が入って、そして王が到着する。
神様が考えられた通りに、約束の地に王が来られるわけです。
ジグソーパズルの最後のピース、それが王様の訪れなのです。
2、イエスは泣いた
19:42 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
イエスはなぜ泣かれたのでしょうか
悲しみを押さえることができなかったからです。
19:42 平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら
と言います。
エルサレムというのは、平和の町という意味でした。その平和の町が平和への道を知らない
エルサエムは平和に向かう道を知らないことを知っていたからです。
ルカ13:33-34で、イエス様はエルサレムについて次のように言っています。
ルカ13:33 しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。』
13:34 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
13:35 見よ、おまえたちの家は見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。おまえたちが『祝福あれ、主の御名によっ
めんどりがひなを翼の下に集めるなら、ひなは守られます。平和があるのです。でもそういう事を嫌う雛もいるのです。そういう雛は親の翼の下から出て、自分の道を行きます。そしてそこには平和はないのです。そこに待っているのは、敵であり、その結果、破滅が待っているのです。
神が訪れてもそれを拒むなら、捨てられる。
エルサレムの人々が神を、神によって遣わされた人を拒んできたことを言っているのです。
神が約束された土地に住む人々なのに、人ひとは、神を拒むのです。ピースは完成しないのです。
イエスは続けられます。
43-44節
「敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。
一つは、エルサレムの未来が、見えたからです。
エルサレムは紀元70年にローマ帝国によって壊滅的な打撃を受けるのです。
ローマ帝国の直轄領であったイスラエルで、ユダヤ総督によって、神殿の宝物が盗まれたことに端を発している。ユダヤ人はそれに反発して反ローマの機運が高まって、暴動化したため、それを制圧すべくローマ帝国はエルサレムの鎮圧を企て、結果としてエルサレムを木っ端みじんにすることになったのである。
でも、この破壊はただエルサレムの街の破壊だけにとどまりません。イエスは44節後半で、さらに続けます。
「それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」
平和への道を知らなかったのは、神の訪れを知らなかったからだと言われているのです。
神の訪れを知らないということ
平和がないのは、神の訪れを知らないからだ。これは当時のエルサレムの人だけに限ったことではありません。私たちは神様の訪れを受けているのです。でも多くの人はそれに気づかないのです。
神様は独り子イエス・キリストによって私たちを訪れ、働きかけ、語りかけ、私たちと正面から向き合う交わりを結ぼうとしておられるのです。
今の時代も、多くの人々は、神様の訪れを知らないのです。
それを想って、イエスは泣いたのではないでしょうか。
神様が今も私たちの間に来てくださっているなんて、と思う方は多いと思います。ましてこんな状況で神様は働かれているのか、と疑問に思う方も多いと思います。
でもだから、神様なんてと断定することで私たちの思考は遮られてしまいます。仮に、神様が私たちの内に来てくださっていると仮定してみてください。そして働かれていると想定してみてください。何がいけないのでしょう。
ヒューストンはここしばらく雨が降っていませんでした。
わたしの家の芝生も、緑が茶色になりつつありました。
自然に任せていてはいけないのです。
水をまかないといけないのです。
私たちの心も、もし茶色にすすけているとしたら、不安の中で潤いを忘れているとしたら、ちゃんと水をあたえていないからかもしれません。
神様は、神様を信じる者には、命の水を与えるとおっしゃってくださいました。聖霊がその水を与えてくださるんです。問題は私たちの願いと聖霊様の間にあります。
意図的に、シバに水を与えないとシバは茶色になっていきます。それと同じように、私たちも意図的に
聖霊にそれを伝えないといけないのではないでしょうか。
3、イエスは宮清めをする 19:45-46
19:45イエスは神殿に入って、その中で商売をしていた人を追い出して言います。
19:46。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」
イエスはここで激しく怒ったのです。
イエスは先ほどはエルサレムを見て、泣きました。そして今宮を見て怒ったのです。
とても感情的なイエス様を私たちはここに見ます。
いつも冷静だったイエス様も、人間なのです。
祈りの本質は、神の訪れをしり、神を迎えること
私たちは神の訪れを知り、その神を迎え、そして神を受けいれることが求められていることを見ました。それは具体的には祈りとして実現されます。
神の宮というのは、私たちの体です。私たちの体は、祈りが住むところでなくてはならないのです。
神は私たちの内に来てくださっていると頭で知っていたとしても、祈りがなければ、それは頭の知識だけで終わってしまいます。
神を信じていると思っていても、祈りがなければ、それは自分の思い込みで終わってしまいます。
祈りの中でこそ、私たちは神との交流が実現するのです。
教会は、この祈りの家です。
新コロナウイルスで、私たちは今まで集まっていた建物には集まれません。でもだからこそ、教会の真の意味が生きてくるのです。神様によって集められたもののつながりです。それは目に見えません。でもそれはまさに神様が目に見えないのと同じです.こうして時を同じにして、私たちは、目に見えない仲間とともに、目に見えないけど真実である神様の礼拝ができるのです。聖徒の交わりを信じます。という使途信条の中の言葉がありますが、今の私たちのこの交わりのことも言っているのです。
その礼拝において私たちは、神の訪れをわきまえ 神様からの語りかけを聞き、その働きかけに応え、神様との交わりに生きていくのです。
私たちの日々の生活、日常の歩みの全てが、神様を中心に、神様と共に生きるという軸を持て、進められていくのです。
もし、私たちの生活が、神様の訪れをわきまえるものとなっていないならば、主イエスはそのことを悲しまれます。また私たちが主イエスの語りかけをわきまえず、それに応答する祈りに生きていないならば、主イエスは怒られるので。
それは私たちが本当の意味での「平和への道」を知らないということです。
もし神様の訪れを知らないままなら、私たちが生まれつき持っている欲望、願望がどんどん成長していきます。そしてそれらの欲望がほかの人の欲望とぶつかって争いが生じます。そして私たちの内でも様々な自分の思いがぶつかって、心に波風の止む時がなくなるのです。
本当の平和への道は、私たちの思い、願い、欲望が、神様の訪れによって打ち砕かれ、純化されていく道なのです。
4.それでもイエス様は来てくださる
イエス様は、そんなエルサレムでも、十字架への道をやめることなく最後まで歩みをされました。涙を流し情けなさに悲しみ、自分たちのことしか考えない宮の商売人たちに腹を立て、大声を上げつつも、十字架の歩み、全うされたのです。
そんな私たちを救うために、、、自らの命を捧げられたのです。
ピリピ人への手紙、2:6 -8
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
このおかげで、私たちは命を与えられるのです。
天国への切符を渡されるのです。
今もイエス様の救いの手が伸ばされています。イエス様の救いを受けていない方は、今がそのチャンスです。私はあなたから離れていました。でも今あなたが今も私を見つめ続けていてくださることを知りました。あなたのもとに帰ります。癒してください。導いてください。
今も神の訪れをわきまえ、イエス様の愛に答えて行きましょう。祈りの家としての生活をいと何で参りましょう。神様の御心を知って、神様の愛を実践していきましょう。