誠意を尽くします!                                        7-12-2020

 

 誠意を尽くすというのは、私欲にとらわれず、純粋な心をもって善をなすということですが、それは神の臨在を恐れる中で、しっかりと事実を把握する事、そしてそれに基づいて行動する事から生まれてきます。それをヨシュアと、ラハブから確認していきます。

 

1、ヨシュアの知っていた事

1)やみくもに進むのは正しくない

ヨシュアはヨルダン川を目前にして、雄々しくあれ 恐れるな、強くあれ、と、神様から励ましを受けました。でも、雄々しくあるからといって、神様を信じて、やみくもに進むというのは、本当の信仰ではないのです。信仰に歩む者は、正確な情報を把握する必要がある。

事実を把握し、準備をする必要があった。食料を準備し、チームとしての結束を図ったのち、彼のしたことは偵察隊をヨルダン川の向こう岸に送ることでした。

 

2)目に見えないものに目を注ぐことが大切である

実は、ヨシュアは、40年前にも偵察隊を送って、その結果を判断して進むのをあきらめた経緯があった。(民数記1330-149

前回はどこかで間違った。

。とても豊かな土地だったが、住んでいる人たちは強そうに見えたのだ。

問題は、「見えた」ということであった。見えるものに頼ってしまったのだ。

 

聖書には、こんな言葉があります。

Ⅱコリ 4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

 

今回は同じ間違いを犯さない覚悟を決め、目に見えるものに騙されないように気を付けたのではないか。目に見えないものを見つけようとした。

そういう意味で、エリコの街に入って、ラハブの家に入って行ったのは、賢かったかもしれない。ラハブは、いわゆる夜の街関係である。こういうところは、建前ではなく、本音が幅を利かすところである。だから、人の心の中を見るためには、結構適切なのである。

 

日本の歴史に、志那事変というのがありました。昭和12年から16年ころまでのことです。蒋介石の中華民国と戦っていました。でもこの戦いはなかなか終わりません。南京を落としても中華民国は、南京から武漢、更には重慶に都を移して戦いを続けたそうです。そしてその背後には米国やドイツが武器を中華民国に供給していたのです。特にドイツは日本と日独防共協定を結んでいくような動きをしていたにも関わらず、その日本と対立する中華民国に武器を提供するだけでなく、軍事指導までしていたというのです。でも日本はそういう裏で動いていることに気が付きませんでした。目に見えなかったのです。南京を陥落させたなどという目に見えることだけでプライドを膨らませ、進んでしまったのです。その後、気が付いたら、日本は米国との第2次世界大戦に入って行ってしまったとされています。目に見えないところが大切なのです。

 

2、ヨシュアの行動 

ヨシュアは、まず直接自分たちで、正確な情報を把握するという事を行いました。

ヨシュアがこのエリコへ進んでいったことには、象徴的な意味があります。

エリコは、ヨルダン川とエルサレムの間にある町です。エルサレムに行くにはエリコを通っていかなければならないのです。

そこには、スルタンの泉(エリシャの泉)という泉があって、滾々と水が湧き出てくる、荒れ地の中のオアシス的な場所でした。

 ヨルダン川は北から南に流れていて死海に流れ込みます。死海は標高マイナス400メートルで、エリコは海抜-258メートルのところにある世界で最も標高の低い街です。モーセが、これ以上は先に行けないと知って、しみじみと約束の地を眺めたところは、ヨルダン川の西岸のネボ山だとされている。ここは、標高800メートルである。そこからはエリコの街がずっと下に眺められたのです。

 ポイントは降りていくという事です。エルサレムに行くには低いところを通る必要があったのです。それはへりくだるという事です。イエスは神の身分を顧みられず、人となってへりくだられ十字架にまでついてくださったのです。だから、父なる神はイエスをよみがえらせ、神の右の座に高く上げられました。今日も、神の名を高く上げよという歌を歌いましたが、それは神がへりくだってくださったからなのです。

 ヨシュアに率いられたイスラエルはまずへりくだることを実践するのです。イエスに率いられる私たち神の民も、へりくだることが最初のステップなのです。どんな風にへりくだるべきなのか考えてみませんか。

 

3、エリコという世界 

エリコという町は、どんな町だったのでしょう。

2017年のNational Geographicという雑誌にエリコのことが書かれています。タイトルは、「世界最古の町とも言われる古代エリコ、エジプト文明と強いつながり】

5千年前の高貴な少女の化粧品が出土、パレスチナ

 ナイル川でなければとれないシンうがいの殻が見つかって、しかもそこにはアイラ伊奈0として使われていたコールの粉末が付いていたそうです。

そうなんです。エリコは小エジプトでもいうべき町だったのです。

 イスラエルの人々はせっかくエジプトから出てきたのに、またエジプトまがいの土地に進んでいかなければならないのです。

 

エリコー密告者が出てくる町  予想外の失敗

このエリコで、彼らは、偵察に入ったことがばれてしまいます。

ラハブの家は、エリコの城壁の中にありました。(民数記215

エリコの街に入ってすぐのところにあるわけで、他の人に見つかりにくく、またすぐに逃げられるとも思われたのです。それに加えて、遊女の家であれば、部外者が入ってきても怪しまれないだろうと考えたのでしょう。

 しかしここは、ほとんどエジプトであることを忘れてはいけません。今の世なのです。悪魔が支配する世なのです。イスラエル人が二人入ってきて、ラハブの家に入ったとエリコの街の王に密告して、さっそく町の警察が、イスラエルのスパイをかくまっているならすぐに出せと言ってくるのである。  万事急須?。

 

4、ラハブの苦悶

ラハブは決断を迫られます。かくまっていたイスラエル人を突き出すか、隠し通すか。

一番簡単なのは、その時の権力に従う事です。大きいものに巻かれよです。イスラエルの偵察隊を引き出せばよい。そうすれば、自分の命に危ないことはないでしょう。

でももしこのイスラエルから来た偵察隊をかくまうなら、うそをつかなくてはならなくなる、そしてもし隠していることがばれたら、自分の命、自分の家族の命も危なくなるのである。

ラハブが何を大切にするかが問われるのです。

 

 

 苦悶の中で、ラハブは、自分が確かに知っていることに基づいて、判断をするのです。むしろうそをついてスパイをかくまうという違法行為をすることをすると決めたのです。

彼女は次のことを知っていました。28-9

「【主】がこの地をあなたがたに与えておられること」という事

  この主という言葉は、契約の神、ヤーウエという言葉です。一般的な神という言葉ではありません。

  私はあるという、あの方なのです。簡単に食いにできる言葉ではないのです。

―自分たちは神に従う人たちを怖れていること

 

何でそう思うのかというと

210 あなたがたがエジプトから出て来たとき、【主】があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。

 

そして彼女は言いました。

2:11  私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました

  もう力が内側から抜けてしまったのです。本当の神はこういう体験をさせるのです。もしこういう経験がない方がいらっしゃったら、神様に向き合ってみてください。必ず神様は存在を示してくださいます。

 

そしてラハブはこう言います。

211  あなたがたの神、【主】は、上は天において、下は地において、神であられるからです

ここでも、主という言葉が強調されています。

 

エリコという世界は、エジプトの影響を受けていましたから、多くの神々がいたことでしょう。エリコという名前は月という意味ですから、特に月の神を拝んでいたと考えられています。でも彼女はイスラエルの主が本当の力ある神であることを知っていたのです。

自分たちに迫っている危機が、人間からではなく、いきておられる神から来ていることを感じ取ったとき、ラハブは決断したのです。天地を創造され、今も生きて働かれているまことの神が自分に向かってきていることを知って決断しました。

まことの神に直面するとき、私たちはそれを感じるのです。

そしてできることは、その神を信じ、神により頼むことしかありません。

 

5、ラハブの行動

ラハブは、覚悟を決めたのです。そして王の使いにうそをついて、その二人はここに来たけれど、もうエリコの街の外に出て行ったと話すのです。

ラハブという名前、幅が広いという意味です。ですから、少し幅の広い女性だったのかもしれません。でも心の幅も広かったのではないでしょうか。その文化の中で適応することのみに明け暮れるような狭い心の持ち主ではなかったのです。本当の神を受け入れられる心の広さを持っていたのです。

 

神様はこれを評価しています。

Hebrew 11:31 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。

 

穏やかにというのは、平和という言葉です。神を受け入れる心の広さを持つなら、神から平安をいただけるのです。

神という力あるお方を受け入れる心をもって、主の平安をもとに、行動したいものです。

 

大きな決断をしたラハブは、イスラエルから来た偵察隊に言います。

212-13 今、【主】にかけて私に誓ってください。私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え、

私の父、母、兄弟、姉妹、また、これに属するものをすべて生かして、私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。」

 

これはこのラハブという女性の神様への祈りでもあるのです。救ってくださいという祈りでもあるのです。ラハブは誠実を尽くしたのですから、私はあなたのために最善を尽くしました。助けてください。

 

それに対して、偵察隊は答えます。

214 二人は彼女に言った。「私たちはあなたがたに自分のいのちをかけて誓う。あなたがたが私たちのことをだれにも告げないなら、【主】が私たちにこの地を与えてくださるとき、あなたに誠意と真実を尽くそう。」

この偵察隊も、命をかけて誠意を尽くそうと答えます。

実際、エリコが攻撃されるとき、命をかけて、イスラエルの部隊は、知恵を使って、ラハブとその家族を救うのです。

ラハブは神の代理人に、誠意を尽くした。神の代理人もラハブに誠意を尽くすのです。神はラハブを救います。

 

誠意という言葉、ヘブライ語でヘセドといいます。

checed: favour

Definition: goodness, kindness

つまり善とか親切。 ラハブは、異国の神ではあるけれど、その神の臨在の前に直面し、その神を中心に、最善を尽くしたのです。

 

神は私たちに愛をもって最善をなしてくださる方なのです。誠意を尽くしてくださる方なのです。

 

神様は、誠意を尽くしてくださいます。私たちも誠意を尽くして毎日を過ごそうではありませんか。

 

神様の臨在の中で、自分で事実を検証し、それに基づいて行動することによって、誠意を尽くしてまいりたいものです。

神様も誠意を尽くして必ず救ってくださいます。