友となってくださる神                             6-14-20 

   

1、私たちは神を必要としている

 

 私たち誰もが、神を必要としています。私たちはまあまあ賢いと思っています。一応及第点だと思っています。でも私たちはどうしても自分の得になることを求める、自分の損になることを避けてしまうのです。そしてそのために人を非難する、社会を非難するのです。

 誰もが自分以外の正しさを必要としています。こんな自分を正す権威を。しかしそれを人に求めると失敗します。その人も同じ問題を抱えているからです。

だからといって、理念とかでも失敗します。人が創ったものだからです。

人が造っていないもので、人類が少しづつ学んできた真理を求めてきました。神話にこそ真理があるという人もいます。そこには一人の人がどんなに頭を絞っても到達できない人類の英知が結集されているからです。

でもそれはあくまでも過去のものです。生きたものではありません。

でも生きている存在がいるとしたら、、、

それが神と呼ばれます。

人はだから神の前に謙虚になることが必要なんです。人間というのは独善にならないために神を必要としています。そこでバランスが取れる。私たちの内に神を求める空間があるといったりするのもそのためなのです。私たちは自分をもっと知らなければなりません。人間を中心とすることが、問題だという事をしっかりと頭に叩き込まなければならないのです。私達誰もが神を必要とするのです。

 

2、神の2つの御性質

1)   神は憐み深い

2021節を読むと、ソドムとゴモラの罪についての声が神のもとに届いていたことがわかります。神はどうされたでしょう。届いた叫びどおりかどうか、滅ぼしつくされるべきなのか見て確かめたいといっています。

ドムとゴモラを本当に滅ぼしつくすべきかを確かめたいと言っておられるのです。

まだ滅ぼすと決めていなのです。

神は全知全能ですから、本当に罪がひどいものであることをご存知なはずです。でも、何とか助ける方法はないかという事を確かめたいのです。そして、それを、アブラハムと共有したいのです。友に一緒になって悩んでもらいたいのです。一緒に悩んでもらいたいというのは、神が不完全だからではありません。神は基本的に三位一体の神からわかるように愛の関係なのです。だから、誰かとともにいることを願われているのです。だからこそ、アブラハムにも一緒になって考えてもらえるように、わざわざアブラハムを訪れたのです。

 

神様は、私たちの心の汚さとか、自己中心とかをすべてご存じなんです。

でもだからといって、本当に滅ぼしつくすべきか、確かめたい。何とか助ける方法はないかと、万に一つかもしれない可能性をいつも探してくださっているんです。そして自分の友にそれを分かち合い、一緒に考えてくださるのです。

2) 神は公正な方です。

 今日読んだ詩編67編にこう書いてありました。

あなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。 詩篇67:4

ある人が、アジアの会議に行ったとき、冤罪で11年間も刑務所に入れられていた牧師と話す機会があって、ショックを受けたと言っていました。

また次に、宗教上の迫害から自国を脱出しようと大金を払ったにもかかわらず、その相手に裏切られ、お金を取られただけで、脱出できなくなって、何年もの間、先行き不透明のまま難民キャンプで過ごしている人たちの話も聞いたそうです。

中国で、新疆ウイグル自治区での人権侵害の知らせも私たちの心を沈ませます。

この地域は伝統的にイスラムの少数民族だったが、習近平主席の指示のもと、推計何十万人1されるイスラム教徒の男性を何か月も洗脳キャンプに収容して、洗脳を行っているということが、BBCニュースで報じられている。だから、この新疆自治区に行くと、男性がほとんどいないそうである。この収容所の中、女性がトイレの中にいられる時間は2分、いつも急げ急げと言われ、遅いと頭の後ろに電気ショックを与えられるという事です。共産党がないと生きていけないと何回も何回も言わされると言います。

ウイグル人という文化集団を地球上から消滅させようとしている。

現実―彼らは正義の欠如によって起こった出来事の犠牲者です。これは、私たちの世界がいかに壊れているかを示す例です。しかし、正義の空洞化は永遠にはつづきません。

 

詩篇67篇は、この傷ついた世界に神様の救いを知らせなさいと神の民に呼びかけます。その結果、喜びが訪れるといいます。神の愛に応答するだけでなく、神の義がもたらされるからです。「国民が喜び、また、喜び歌いますように」と詩篇の作者は語ります。それは、神が公平に諸国の民を裁き、地の国民を導かれるからです」(4節)。

 

神の重要な属性は公平さ(すなわち、公正と正義)です。ただそれが完全に現れるのは今ではなく将来であります。その時が来るまで、私たちはこの不公平な世界で、神の神聖なる正義を人々に指し示すべく働いていかなければなりません。神が来られるとき、私たちは、公義や正義が川の水のように豊かに流れるのを見るでしょう(アモス5:24

 

3、アブラハムの性質

1)公正な心を持つ

神から、大きな心の悩みを打ち明けられたアブラハムは、どうしたでしょう。ソドムとゴモラを滅ぼしつくすべきか、、、

アブラハムは真剣に心の悩みを聞きました。ソドムにはアブラハムの甥のロトが住み始めていたことも彼の頭をよぎったのではないかと思います。神の考えを聞いて、そうですか、と引き下がりませんでした。それは22節を見ればわかります。

その人たちは、そこからソドムの方へ進んで行った。アブラハムは、まだ【主】の前に立っていた。

アブラハムはまだ主の前に立っていたんです。彼の中では時間が止まった状態です。まだです。まだ解決していないんです。

 

これが、アブラハムが神の友と呼ばれる所以ではないでしょうか。それだけ、友の悩みを真剣に引き受けているのです。それだけ心に重荷を持っていることがわかります。

 

そして23-24節 

アブラハムは近づいて言った。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。

近づいていったとありますから、追いかけていったんです。本当に正しい者も悪いものと一緒に滅ぼすおつもりですかと、、、

もしかすると、その町の中に正しい者が五十人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにならないのですか。

正しい者を悪い者とともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にあり得ないことです。全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。」

神に交渉するなんて、恐れ多い。でも神は願いを聞いてくださるのです。友として友人の願いを聞いてくださるんです。ですから、神の前で委縮する必要はありません。

 

アブラハムが交渉に使った理由はなんでしたか?25節 正しいものも悪いものも共に滅ぼすということは、正しくても神からは認められないということになる。それでは正しく生きる意味がない。神はフェアな方ではないのかという事です。

まさに神は1819で、アブラハムにどうなってもらいたいかと自問して、公正になってもらいたいと明言していました。

だから、アブラハムも神に公正さを求めているのです。ぴったりマッチしているのです。

 

2)   憐みの心を持つ

24節から始まった交渉は32節まで続きます。

あなたは50人の正しい人がいたら、救ってくれませんか   45人、4030人、2010人と減らしていくのです。10人でも正しい人がいたら、、、

なぜ人数を減らしていったのでしょう。神様から見て、正しい人は、そんなにいないかもしれない。そう思ったかもしれません。

大事なことは、アブラハムが、何とか人を助けたかったとうことです。

これは言ってみれば祈りです。とりなしの祈りです。人のために祈るという事です。

アブラハムが神の友に選ばれた理由の2つ目は、彼も憐みの心を持っていたということです。

アブラハムは同胞を助けたかったんです。だから、アブラハムは神に交渉するんです。

神の友は神に交渉していいのです。祈るべきなのです。

 

アブラハムも神の2つの性質、公正さと憐みを持っていることがわかりましたね。二人は友になったのです。

 

4、友となるということの意味

多くの人がなぜ神を受け入れないのかと考えると神を本当に知らないからだと思えてきます。

私たちが、神を受け入れないのは、自分が完全に従属しなければならないと思っているからではないでしょうか。不自由になってしまうと思っているのではないでょうか。私自身も昔はそう思っていました。でもそうではないのです。神を受け入れることによって自由になるんです。

神は、人間の存在しているシーソーの次元とは別の次元にいらっしゃるお方なのです。神を受け入れることによってシーソーから降りられるのです。そして自由になれるのです。

そして、神を受け入れるという事は、神の友になるという事です。憐み深くしかも公正な神は友となってくださるのです。このことは核心です。こんな神様がいらっしゃるんです。そしてこの方こそ真の、そして唯一の神様なのです。友となってくださる神様。

 

フィラデルフィアという言葉は、兄弟愛 つまり愛情を持った友のことです。サムエルコールリッジという詩人は、Youth and ageと言う詩の中で、こう書いています。

友情というのは、木陰を提供する樹木である。友というのは、その人生が枝のような人のことである。彼らは影を提供する。彼らは真夏の暑い日差しのなかで、避難所を提供する。人はそこに慰めを得る。その近くにいることで力を得る。彼らは、栄養や勇気を与える果物を提供するという点でも樹木のようだ。あなたの人生で何か起きた時にあなたが一人のとき、あなたは電話を取って、友に話しませんか。私たちは誰かと繋がりたいのです。突然の試練とか喜びが訪れた時に、話すことができる友がいないことより孤独なことはほとんどありません。

 

1) 友は心を打ちあける。

友となってくださるとはどういうことでしょう。

18:17 【主】はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。

まず、主は、自分がしようとしていることを、アブラハムに打ち明けようと考えられたわけです。

そして、神様の考えが次に示されます。1819節です

「アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。

わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが【主】の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、【主】がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。」

そして、神様は自分の考えを打ち明けようと決心されます。

それが、2021節です。

【主】は言われた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。

わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい。」

私たちはどんな人に、自分の心の悩みを打ち明けますか。誰に隠しておきますか。知らない人、敵には隠しておきます。信頼のできる友には、うちあけるのではないでしょうか。つまり神はアブラハムを信頼のできる友として認めたのです。

神は、アブラハムを友として認めるがゆえに、自分の心の悩みを打ち明けるのです。

 

2) 友は願いを聞く

アブラハムは、神が公正な方だという事を根拠に、神に交渉します。友からの頼みであり、理にかなっていることですから、神は合意したのです。10人でも正しい人がいたら、滅ぼさないという約束を了承したのです。結局神はソドムを滅ぼされます。10人も正しい人がいなかったのです。神は憐み深いお方ではありますが、公正なかたなのです。

でもここで大事なのは、アブラハムと神様の関係です。神は友に打ち明け友の願いを聞いたうえで、行動に出られたのです。

公正ではあるが、憐みの深い神は、すぐに実行するのではなく、自分の考えを友であるアブラハムに打ち明ける。アブラハムはそれを聞いて、公正な神なんだから正しい人がいたら助けてくださいという。神とのこのやり取りの中で、アブラハムは成長するのです。公正な人であり、かつ憐みの人になるよう育てられていくのです。

3)友は神の戒めを守る

イエスも弟子たちにこう言いました。

ヨハネ15:14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

15:15 わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

 

この話を聞いていたとき、弟子たちはイエスの教えを守るどころかイエスの教えを理解してもいませんでした。イエスの言われたかったことはイエスの友であるなら、イエスの戒めを守るようになるという事です。もうしもべではないのです。対等な友として扱っていただけるのです。そのカギはイエスの戒めを守るという事でした。イエスの戒めとは、神の言葉を守って、愛をもって仕えあうというという事です。

 

終わりに

アブラハムと神との関係と同じように、たちもイエスを信じ、イエスの戒めを守るなら、イエスの友でもあるのです。イエスは私たちに心を打ち明け、私たちの願いを聞いてくださるのです。

 

第一次世界大戦の2人の兵士のことを話しましょう。彼らは一緒に入隊しました。一緒に訓練を受けました。一緒に前線に派遣されました。ある攻撃の時、一人が重傷を負いました。もうはいつくばっても自分のたこつぼのような壕に戻ることはできませんでした。その地域全体が敵の交戦の戦場になっていたのです。彼のところへ行こうというのは自殺行為でした。でも彼の友は敢えて彼を助けに行こうとしました。しかし彼の上官が彼をつかんで言いました。「行くな。手遅れだ。彼に何もしてやれない、そしてお前も死んでしまう。」

しばらくして上官は、他の方向に目を向けました。その瞬間彼は、塹壕を出て彼の友のところを目指して走り出しました。数分後、彼はビッコを引いて戻ってきました。重傷を負っていたのです。でも死んでしまった友を腕に抱えていました。、

上官は怒り、しかしこみあげてくるものを押さえることができませんでした。

「犬死だ」彼は死んでいる、お前も死にかけている。値しないことを。

死にかけていたその男は、最後の一言を発します。上官、値します。

彼のところに行ったとき、彼の言った唯一の言葉は、「来てくれるとわかってたよ、ジム」だったのです。

本当の友のしるしは、危険すぎて、そこにいてはいけないあらゆる理由があっても、そこにいることです。

イエスキリストは、友として私たちにかかわってくださいます。私たちのために十字架にかかられました。自分の命をかけて、私たちのところに来てくださいます。

 

かけがいのない友、イエスとの関係をはぐくんでいこうではありませんか。

神は私たちの友となってくださいます。