ここでは少し前のメッセージを紹介しています。

 

苦みについて            3-15-20       出エジプト記  152225A

 

まず詩編36を読んでみましょう。

 

この詩編は、悪の誘惑が自分の心の中にまで入ってくるが、神の義をしっかりと握りしめ、神によって与えられる命を持ち続けていこうという詩編です。

 

米国は、トランプ大統領によって緊急事態が宣言されました。スポーツや音楽のイベント、人が集まる教会やイベントの自粛が要請されています。グローサリーストアでは、人々がものを買い占め、商品の並んでない棚が目立つようになっています。

このような、不安な状況の中で、私たち、聖書の神を信じる私たちはどう対応すべきなのでしょう。

 

わからないことがたくさんあり、私たちは混乱しがちです。確実なことは私たちが今荒野を歩んでいるということです。荒野には、町での生活で与えられる必需品がありません。町で与えられる娯楽もありません。

荒野ですべきことを、私たちの主に尋ねてみましょう。

 

1、 1,  3日前の神様からの祝福は、あっという間に忘れられる。

 

出エジプト記の152227節の話は、水がないという問題から始まります。

 

この話の直前に何が起こっていたかを知ることは意義があります。

 

前は海、後ろにはエジプト人、万事休す。と思ったとき、モーセが杖を指し伸ばすと海が割れて道ができ、そこをイスラエル人は渡り、彼らが渡り終わった後、迫ってきたエジプトの軍勢は、割れた海が元に戻ってみな海の中の藻屑となりました。神様が不思議な奇跡を起こして彼らを救ってくださったのです。九死に一生を得たイスラエルの人々、彼らは喜び歌い踊ります。

 

でも感情は、長続きしません。

 

3日前の解放は、3日後ののどの渇きを鎮めることはできないのです。

 

3日前の喜びは、その原因となった神様に行きつかないのです

私たちがすべきことは、自分の浅はかさを確認することです。少し昔の祝福の記憶もすぐ忘れられてしまう事を覚えることです。

  

       2,  やっと見つけた水も、苦くて飲めなかった。

 

イスラエルの民は荒野へ出て行って、3日間歩いたけれど、水が見つかりませんでした。

水筒の水も底をついたのでしょう、荒野ですから乾燥しています。のどが渇きます。

そしてマラという場所に来たのです。マラというところに、水があったのですが苦くて飲めなかったのです。マラというのは苦いという意味です。

彼らは、リーダーだ ったモーセに不平をぶつけます。

私たちは何を飲んだらいいのか。

問題は、水がないことではありませんでした。水はあっても苦いということでした。

私たちも同じような問題をもっているのではないでしょうか。

 

生きるのに必要な水がないことが問題なのではありません。水はあるけれど飲めないほど苦いのです。

 

生きるのに必要なものがないのではありません、苦いことが問題なのです。

私たちには身体が与えられています。肺があり、心臓があり生きるのに必要なものが備わっています。心があり、感情が備わっています。でもそれが苦くなることがあるのではないでしょうか。苦いことが生きるのをつらくしているのではないでしょうか。

自分の心に苦みがあるでしょうか。人との間に苦みがあるでしょうか。

平安がないというのは裏返して言えば、苦みがあるという事かもしれません。

苦みというのは何でしょう。とげとげしくなることです。波風が立つことです。

いろいろな出来事を経験する中で、不安になって心に波風が立つことです。そして冷静な判断ができなくなります。神との間に壁ができてしまうのです。

私たちはすぐにマラ、苦い場所に戻ってしまうのです。

 

ヘブライ人への手紙にこんな言葉があります。

 

「だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。」ヘブル 12:15

 

私たち罪あるものには、苦い根が生えてくる性質があるのです。

苦い根が生えてこないように、気をつけなさいと言われています。自分の苦い根に敏感になることが大切です。

 

3、25 節 モーセが【主】に叫ぶ、

 

対策は、主に叫ぶことです。

モーセはこの不平に対し、自分の事として対応するのではなく、神に叫ぶという形で対応しました。問題が起きた時、自分で何とかしようとするより、まずは神に叫ぶ、これを習慣にしましょう。これは決して弱いからではありません。私たちはそのように作られているのです。私たちの毎日には神が必要です。神がいなければ私たちは時間とともに干からびていくするめのようなものです。時間とともに滅びていく物体に過ぎないのです。

 

心が苦くならないように気を付けましょう。

そしてそれに気づいたら、神に叫びましょう。それを怠ってはいけません。

神は必ず答えてくださいます。

 

 

 

荒野を歩む        申命記8:2       3-8-2020

 

 

レントは40日、この期間をどう過ごすか

 

先週は灰の水曜日の話をしました。

 悔い改めというのは、もっと神中心にするということでした

 そのために祈り、断食、奉仕を強化しましょう。と話しました。

  イエスは洗礼を受けたあと、聖霊に導かれて荒野へ退かれ、40日を過ごされました。

 イエスの宣教の言葉、「悔い改めなさい、神の国が近づいたから」というのは、荒野を体験されて、出てきたものなのです。

 イエスの先駆者、洗礼者ヨハネも民衆の前に出てくるまで、荒野で過ごしていた。

  

 

モーセはイスラエルの民に神からの十戒を受けるためにシナイ山に上って40日過ごした。

 

シナイ山というのもある意味荒野と言えます。

   

イエスの荒野の40日というと、悪魔の誘惑を思い出すが、

 荒野での経験というのは、悪魔の誘惑だけに尽きるのではありません。

 荒野、そこは何もないところである。

 水とか食べ物にしても簡単に見つからない。

 毎日どのように生きるかが問われるところである。

 

イスラエルの40

 

イスラエルの民は、エジプトという慣れ親しんだ文化から脱出して自由になったが、脱出した先は荒野だった。約束の土地に行くまでに40年間かかった。その40年間の放浪の彼らの生活を記録しているのが、民数記。「民数記」(Numbers)ヘブル語聖書のタイトルは「荒野で」となります。彼らが荒野をさまよった記録です。

 

神の言葉に接していたイスラエルの民でさえ40年、40日ではなく、荒野をさまよいました。奴隷の身から解放されてエジプトを出た後、約束の地にたどり着くまで40年間かかったんです。

 

この時間は無駄だったんでしょうか。

  

 

荒野経験の目的

 

なぜ神様は私たちに荒野の経験をさせるのでしょう。

申命記に、荒野経験の目的が挙げられています。

 

 あなたの神、【主】がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。「申命記 8:2」 

   

1)神の命令を守るかどうかを知るため

荒野には何もありません。

外面だけ神に頼っているようにふるまっているが、実は他のことをするということができません。何もないのですから、ことは単純なのです。

神に従うか、自分で何かしようとするか。

  

2)自分の心の内にあるものを知るため

   荒野には何もありません。だから、私たちは自分の心にある風景を外に反映します。私たちの心はっても創造的です。なければそれを作り出すのです。

 精神病になると、心の中の苦痛が外に出てきます、声が聞こえてきます。それを患者は幻覚としてみたり、幻聴として聞いたりするのです。

 荒野の中で、食べ物が欲しい欲しいと思っていると、何でも食べ物に見えてくるのです。

 石ころをパンに変えたらどうだという悪魔の誘惑もそこをついたものだったのです。

 自分の心にあるものが出てくるのです。

 だから、私たちの心の内に何があるかがわかるのです。

 

   

荒野で神のしてくださること

 

荒野は恐ろしいところです。でも神がいるならその恐怖は喜びに代わるのです。神は何をしてくださるのかを見てみましょう。

  

 申命記129-31

 

1:29 それで私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。

 1:30 あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、【主】があなたがたのために戦われる。エジプトで、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったのと同じように。

 1:31 また荒野では、この場所に来るまでの全道中、あなたの神、【主】が、人が自分の子を抱くようにあなたを抱いてくださったのを、あなたがたは見ているのだ。

   

1) 神が先を歩いてくださる。

 

エジプトを出たイスラエルの民はどこへ行くべきかを知りませんでした。

 彼らを引っ張って行ったのは誰だったでしょう。神様です。神が先に立って率いてくださったのです。神について行っていますか。自分

  

 

2) 神が戦ってくださる

 

そして敵がいたら、神が戦ってくださったのです。

 自分で戦おうとしていませんか

 神に戦っていただいていますか

  

 

3)荒野では人を守ってくださる

 31節 人が自分の子を抱くように、抱いてくださったと書いてあります。

  

 

 4)荒野で人を養う

黙示録12:13

  竜は、自分が地へ投げ落とされたのを知ると、男の子を産んだ女を追いかけた。

 12:14 しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われるためであった。

 

逆説的なようですが、荒野は、人を養ってくれます。何もないところですが、何もないからこそ、神によって人は養われるのです。荒野では神の恵みに頼るしかありません。

 

映画館もありません。スポーツジムもありません、ショッピングモールもありません。レストランもありません。神の恵みに頼るしかないのです。

 

黙示録12:6 女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。

  

 

荒野を歩む祝福

 

荒野を歩むことによって、私たちは宝物を見つけることができます。

 それは神がともにおられるという事を経験するという事です。

   

モーセは、この荒野の経験について驚くべきことを語っています。

 

「あなたの神、主は、この40年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」(2:7)

 

「この40年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」(8:4)

   

このようなことが可能なのは、ただ主が共におられ、その主に私たちが頼ってきたたことによるしかありえません。

 

  

荒野は荒野です。簡単ではありません

 荒野で生きるのは大変です

 でもそこには宝物が隠れているのです。

 それは生きる神を体験できるということです。

 神の声を聞けるということです。

   

平日の夕方、東京の渋谷駅前の交差点 2人の男の人が歩いていました。

 ひとりが言いました。マツムシの声が聞こえる。え、

 こんなとこで聞こえるはずないよ。何も聞こえない。

 でもその男は、路地に入って行くと、そこに捨ててあった空き缶の上にマツムシがいるのを見つけて見せたのです。

 その男の人は言いました。

 人は聞きたいものを聞くんだよ。

 そういって、硬貨をポケットから出して投げましたチャリン、その音を聞いて、周りにいた人たち、

 10人以上がパッと足を止めて彼らを見たそうです。

  

 

私たちは自分の見たいものを見、聞きたいものを聞くようにできているのです

 神の声を本当に聞きたいでしょうか。であれば、それをいつも気にかけることです。

 それが自分にとってとても大切であると言い聞かせることです

  

 荒野の歩みを通して、私たちは神の声を聞くように訓練されます。それは具体的には、祈りであり、みことばを聞くことです。

 このレントの期間、約束の地を仰ぎみつつ、毎日荒野を歩む自分を意識して、

いつもより神様の声に耳を傾けてすごしてみませんか。

 

神様の思い              2 Peter 3:9                            2/23/20                                                                                

 

旧約聖書の創世記に、メトセラという男が出てきます。彼の父はエノク。

 

エノクはメトセラが生まれてから300年神とともに歩んだと書かれています。

 

メトセラはそんな父を見て育ちました。

 

メトセラという名前は、死んだ後に裁きが来るという意味であろうとされている。

 

自分の名前が、メトセラだったら、私だったらどう生きるか、そんなことを考えた。

 

神の思いを知りたい。そう思いました。

 

神の思い、神の思いを知るために聖書にはいくつも神の言葉が記されているので、それを見てみましょう。

 

1) 満足されていた。

 創世記131節、「神はご自分が創ったすべてのものを見られた。それは非常に良かった。」神は創造について満足されていたのです。

  

神様は天と地を造られ、そこに命を作り出されました。植物を動物を、そして男と女を造られたのです。そして創造の6日目、創造を終わって神様は何と言われたでしょう。

  

2) 後悔される

 Gen 6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。

 6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

 

 3)忍耐された。

        神様は、彼が死んだ後に裁きを行うという名前をつけて、メトセラを地上の命を与えたのですが、メトセラを969年まで生きさせました。

 この長寿は何を語るのでしょう。

   何とかその間に人々が神の前に悔い改めるようにと

 神は忍耐深く、人々が悔い改めることを待ってくださったのです。

 神は辛抱強く待ってくださるのです。

  

       4)滅ぼす決断をする

 Gen 6:13 神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。

 暴虐という言葉には、間違いという意味もあります。

 地上が間違いだらけになっていると神は嘆いておられたのです。

  

滅ぼすという決断をした神様、

忍耐に忍耐を重ねたにもかかわらず失望する状況の中で、

ノアだけが神とともに歩んでいたのです

ノアという名前の意味は「慰め」です。

ノアは神様にとっての慰めでした。だからこそ神様も滅ぼすという決断をされたのかもしれません。

 

5)人類をあわれむ

大洪水が去った後、ノアは再び大地に足をつけます。

最初にノアがしたことは、神への捧げものでした。

Gen 8:20 ノアは【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた

 

神から憐みを受けたら、まず神様に捧げものをする姿勢、私たちはこれをわすれてはなりません。

そしてその捧げものの香りを嗅いだ神の決意を聞いてください。

 

Gen 8:21 【主】は、その芳ばしい香りをかがれた。そして、心の中で【主】はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。

 

人の心が思い測ることは幼い時から悪だ、と神様は見切っているのです。

神の前に私たちが悪でしかないことを見切っていらっしゃいます。それにもかかわらず、もう大洪水を越すことはしまいと決意をされたのです。

ここに神の憐れみ、愛を見ないで何が見えるでしょうか。

 

6)、御子を与える決断をされた

   そんな神様は、人類に、救いを与える方を新たに送る決断をされたのです。

John 3:16  神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

ルカの福音書3章にもイエスの系譜が書かれています。それはイエスからさかのぼっていく系譜です。イエスが何のために人間としてこの地上に来られたのかを意図を手繰るように続いて今るのです。そしてアダムにたどり着くのです。アダムにまで戻っているのです。アダムから始まった罪の系譜を改めて歩きなおす。そういう意図が読み取れるのです。

 

7)そして今、また 忍耐されて、待っていらっしゃる

次の個所を読んでみてください。

 

2ペテロ33-9

 

3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 

私たちはメトセラが生まれた時に預言されていて実現したことを見ました。まさにメトセラが死んだときに、洪水が起きたことを見ました。

ノアの洪水が預言されていて、実現したとすれば、火の裁きが必ず来ることも確かなことではないでしょうか。

 

神様はそのうえで待っておられるのです。

9節がカギの聖句になります

 

望んでおられるというのは、 ただの願望ではない。意図をもって決意をもって願う事です。

 

神様の決意を感じられるでしょうか。

すべての人々が悔い改めることを願って、待っていらっしゃるのです。

こういう神の決意を受け止めましょう。

神様の思いを見つめましょう。歴史の最初から、神様は人間に対して思いを持ってこられました。憐みを注いで来られました。

毎朝、私たちは愛に満ちた思いを持った神様から、新しい憐みを受けています。

神の思いをもっと知りましょう。

神の思いを知るには、神に近づかなくてはなりません。

神に近づくことによって、私たちは神の思いをもっと知ることができます。

 

私たちがどのくらい神様の思いを知ることができるかは、私たちがどのくらい神様の近くに行くかにかかっています。

私たちの生活における神様の影響は、私たちがどのくらい神様と近くで過ごすかにかかってくるのです。

神の思いを自分のものとさせていただくよう神様に近づきましょう。

 

今週の水曜日、2/26は灰の水曜日と言います。この日から受難節が始まります。受難節はイースターまでの46日間続きます。日曜日は主を祝う日ですから、それ以外の40日、主の受難と復活に備えるのです。

40日というのは、試練の時であり、新しい時代が始まる時に40日の試練が訪れていました。

ノアの時代の大洪水は40日雨が降り続いたと書かれています。これによって当時の人類は一掃されて新しい人類が新たに歩み始めたのです。

 

エジプトという文化の中で奴隷として生きていたイスラエルの民は、モーセに率いられてそこを脱出し、新しい生き方を神様から教えられます。それが十戒であり、律法です。モーセはその十戒を受け取るために40日間シナイ山にこもりました。

 

イエスキリストは、聖霊によって祝福を受けた後、荒野で40日間悪魔の誘惑を受けられました。新しい生き方、イエスを信じる神の国に生きる生き方を実践するためにこの誘惑を経験されたのです。

 

 これからの時間、私たちにとっても新しい生き方をしていくための備えの時間になるでしょう。

この期間、神様の思いをもっと思るために、神に近づいて過ごしたいものです。

 

ヨハネの福音書8章31-32節にこんな言葉があります。

 

「8:31 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
 8:32 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

 

私たちは、自分で思っているほど、自由ではないようです。もちろん、経済的な制約、社会的な制約、身体的な制約、さまざまな制約の中で私たちは毎日を送っています。でもそういうことがなかったとしても、私たちは自由とは限らないのです。

 私たちは、自分の好きなことをしたり、気分の通りにふるまえたら、自由だと思いがちです。でもそれは自由ではないのです。自分の感情の奴隷になっていると言い換えることもできるからです。私たちが感情の通りに行動したらいいことが起こるでしょうか。私たちはちょっとしたことで、かっとして、いらないことを言って人を傷づけてしまいます。それは私たちが感情の奴隷になってしまうからです。こう考えてくると、自由というのは、かなり難しいものだということが分かってきます。

 

しかしながら、イエスは、イエスキリストを信じる者に、本当の意味での自由を与えてくださると言っておられます。それはそのような外的な条件、心の状態によって縛られないということです。

 

体が不自由だって自由、経済的に不自由だって自由、過去にまずいことをして、落ち込んでいるけれど、自由、、、そんな自由があるのです。

 

そしてそれはイエス・キリストの恵みを受け取るものに与えられるのです。つらいといって、握りしめているこぶしを開いて、イエス様からそれを受け取るか受け取らないかは私たちの選択です。

 

「私の言葉にとどまるなら、真理を知り、真理はあなた方に自由を得させるであろう」、この言葉を大切にしていきたいと思っています

 

みなしごの父、 

 

やもめのためのさばき人は

聖なる住まいにおられる神!

神は孤独なものを家に住まわせ、

捕らわれ人を歓喜の歌声とともに

導き出される。

しかし頑迷なものは焦げつく地に住む。(詩編68:5-6)

父なる神を改めて思います。

どんな人にも父なる神の目が注がれています。

頑迷であってはいけません。

 

聖書には神についてこんなことも書かれています。

 

「あなたのような神がほかにあるでしょうか。あなたは咎を赦し

ご自分のものである残りのもののために背きの罪を見過ごされ

怒りをいつまでも持ち続けず、慈しみを喜ばれるからです。」

 

全知全能偏在の神は、信じるものにとって、決して恐ろしい怖い存在ではないのです。憐んでくださる方なのです。この神が与えてくださる愛を受け取っていいんです。

 

6-9-19のメッセージです。

4/24/2019 イースター礼拝より

1-6-19 イエスの生涯の真ん中にあるもの?

祈り、瞑想について

 キリスト教の中でもカトリックでは、霊操とか瞑想といわれ、今でもその伝統は強く残っていますが、プロテスタントでは、ほとんど注目されません。でも別にプロテスタントでそれを拒否する必要もありません。

別に座禅を組んだりする必要はありません。しずかに、神からの声に耳を傾けるのです。そのとき聖書のことばを思いめぐらすのが普通ですが、ただ神からの声を待つという時も必要です。

聖書の言葉は神によって生み出された言葉だという事を思い出してください。もちろん聖書は翻訳されていますから、人間的な誤りが入る余地もあります。でもそれを考慮に入れても、神の言葉はゆっくり時間をかけて心を傾ける価値があります。

 何か聖書の一節を繰り返し読んで、まずその意味を考え、それをもとに、ここから示されることを考えてみましょう。人間的な知識では到達できなくても、何よりも神様が語ってくださると信じてみてください。時間はかかるかもしれませんが、やってみる価値があります。

 

礼拝から

「励ましの重要性」

聖書の「使徒の働き」にバルナバという男が出てきます。この男はキプロス島出身のレビ人だと書いてあります。使徒たちがエルサレムでイエスキリストにについていくものとして活動を始めたころ、バルナバもこの使徒たちに会い、イエスキリストのことを教えられたのです。そして素直にイエスキリストこそ世の救い主だと信じたのです。

バルナバというのは、実はニックネームでした。本当の名前はヨセフです。なんでそんなニックネームが付いたのか、それはその言葉の意味を考えるとわかります。バルナバというのはバルとナバ、の合成語です。バルというのは、子供という意味、ナバというのは励ましという意味です。つまり「励ましの子」という意味になります。日本の聖書だと新改訳も新共同訳も、「慰めの子」としていますが、励ましの方がしっくりくるんじゃないかと思います。慰めというと、悲しいことがあったときにともにいるという感じですが、励ましというと、前へ前進するのを促すというニュアンスがあります。バルナばのしたことは、前へ進むのを促すものだったからです。

バルナバは、クリスチャンを迫害していたパウロが、180度転換してキリストに従うものになったとき、エルサレムのクリスチャンの使徒たちに紹介したのです。使徒たちは、これは策略ではないのかと恐れたに違いありません。でもそんなことはない、本当に彼はクリスチャンになったんだと彼らを励ましたんです。また今までクリスチャンにしたことはひどかったのに、彼らに受け入れてもらえるだろうかと恐れるパウロにも、大丈夫、と励ましたに違いありません。

 

バルナバは、アンティオケアに初めて異邦人教会ができたのときの、最初の指導者でもあります。

バルナバは今までユダヤのことをほとんど知らなかった新しい信者を教え、異邦人のクリスチャンのことを快く思わない人がいたとしても気にするな、主イエスにとどまることが大切なんだと励ましたのです。一番大切なことは主イエスキリストとともにいることなんだと。

彼はこういう励ましの中で新しい時代を作り出していったのです。

 

今こそ、このバルナバの資質が求められる時代ではないでしょうか。

私たちもバルナバから励まされています。困難な状況にいたとしても、主にとどまり続けなさい、誘惑にあったとしても主にとどまり続けない、と。

 

そしてまた、人を励ますことも求められています。

肉親を失って呆然としている人、離婚の中で心がぎすぎすしている人、友達に裏切られて人を信頼できなくなっている人、病気の家族の看病で希望が見えなくなっている人、まだまだ限りがありません。

私たちに そんな人を一人でも励ますことができたら、神様は喜んでくださるでしょう。

2月14日はバレンタインデーですが、同時に聖灰水曜日でもあります。

この日からレントが始まります。

昨日はマーディグラということで、King Cakeを目にされた方もおられると思います。このKing Cakeは1月6日の公現祭(エピファニー)で博士たちがイエス様を拝んだことからきているのです.だからケーキの中に赤ちゃんが入っていたりするんです。このお祝いがおわると、イエス様の復活(イースター)にむけてのレントの期間に入ります。

今年は、イエス様の受難を覚える聖杯水曜日とバレンタインデーが重なりましたので、本当の愛、人の愛、神の愛について考える良い機会だと思います。

皆さん良い時をお過ごしください。

「星に勇気をもらって」

イエスキリストが生まれ、クリスマスを祝いました。このクリスマスの期間は通常12日間、今年は1月の7日まででした。

1月7日は、東方の博士たちが、偉大なる王が生まれたという星のしるしを見てイスラエルに来ることを祝います。彼らは星に勇気をもらって一歩を踏み出したのです。

 イエスキリストは、決して、イスラエルの人だけの神様ではない、地上のすべての人々の神様です。それをこの博士たちは最初に証言したのです。

 でもそれは、この博士たちが一歩踏み出して、わざわざイスラエルまで訪問したからこそ起きたことです。これはものすごいことです。

彼らがどこから来たのかについては諸説ありますが、イラクだとかイランだという可能性が高いです。だとすれば、もう何週間もかけないと来られない距離です。

それだけの時間とお金をかけて、幼子のイエスキリストを礼拝する。

おそらく1歳の幼子ですから、言葉も十分にしゃべれなかったでしょう。でもイエスキリストは何歳であってもイエスキリストです。人であり、神であられるお方なのです。私たちが礼拝せざるを得ないお方なのです。

だから、神様を礼拝するという事に価値を認め、自分の日常の生活から離れて、一歩踏み出したのです。 

私たちに命を与えられ、維持されているこの神様を知るために、もう一歩踏み込む必要があるのではないでしょうか。(マタイ2:1-12)そしてそのもう一歩とは何なのか、神様に聞いてみましょう。

 

 

シメオンという男が、ヨセフとマリアに出会いました。

これがイエスの誕生後40日後のことです。 ルカ2章21-35

シメオンという言葉は旧約聖書から数多くつかわれてきた名前です。意味は、「神は聞かれた」。

神は聞かれるだけでなく、答えてくださいます。

私たちの呻きを聞かれるだけでなく答えてくださるのです。

ヨセフとマリアにあったシメオンは、二人の抱えていたイエスという赤ん坊を抱きかかえたとき、長い長い間、待ち望んでいた神様の答えを聞くのです。

その時の反応が、シメオンの賛歌として知られる詩になってます。Luke: 29-31

ラテン語の出だしをとって、ヌンク・ディミティスと言われていますが、

今こそ私を去らせてくださいます。仕事から解放してくださいます。そういう意味です。

神様はシメオンの長い間の、救いを求める声に、答えてくださったのです。

とうとう神様は救いをこの地上に贈ってくださったのです。

それがイエスキリスト。

赤ん坊のイエスキリストを腕にかかえ、

シメオンの感慨はいかばかりであったことでしょう。

実際にイエスが救いのみ業を行うのは30年ほども先の事ですが、

シメオンは将来を確信して安心したのです。

2018年、私たちも将来を確信して安心できるのです。

神様は聞いてくださいます。そして救いがもう与えられているのです。

私たちの腕にはイエス様がいらっしゃるのです。

私たちの腕にイエス様がいらっしゃる。このことに思いをはせてみてください。

神様の恵みはもう私たちに与えられているんです。(ルカ2:21-35)

12/24/17の礼拝でご紹介したウエールズの詩人にして牧師だったGeorge Herbert. 1593–1632の詩を紹介します。彼は39歳で天に召されました。

私訳のあとにオリジナルを付けます。

愛と名付けられているのは神様です。神様がどのような方であるのか、瞑想の助けになると思います。

 

Love (III)

 

愛が私を招いたのに 私は後ずさった。         

ちりと罪にまみれていたから。

 

でも、めざとい愛は私が引き下がったのを見て   

私が入ってきたところから さらにわたしに近づいて                                       「何か足りないものがありますか」とやさしく尋ねた。

 

「ここにいるのにふさわしいお客様がいらっしゃいません」と私は答えた。

 

「それはあなたです」愛は言った。     

 

「私ですか、不親切で感謝もできないのに、                                           
 
私はあなたを見ることすらできません」

 

 愛は私の手を取って、                        

 

         ほほ笑んだ。
私以外の誰がその目を造りましたか」

 

「それはおおせのとおりです。主よ    

 

でも私はそれらを汚してしまいました。

 

わたしの恥にふさわしいところに行かせてください」                            

 

「あなたは知らないのですか」愛は言われた。                                        
「だれがその咎を負ったのかを。」     

 

「ああ、そうです。では、あなたにお仕えいたします。」                                  

 

「座りなさい」と愛は言った          

 

「私の食事を食べなさい」            

 私は座り、食事をとった。

 

 

Love (III)

 

Love bade me welcome: yet my soul drew back,
        Guilty of dust and sin.
But quick-ey’d Love, observing me grow slack
        From my first entrance in,
Drew nearer to me, sweetly questioning
        If I lack’d anything.

 

A guest, I answer’d, worthy to be here:
        Love said, You shall be he.
I the unkind, ungrateful? Ah, my dear,
        I cannot look on thee.
Love took my hand, and smiling did reply,
        Who made the eyes but I?

 

Truth, Lord, but I have marr’d them: let my shame
        Go where it doth deserve.
And know you not, says Love, who bore the blame?
        My dear, then I will serve.
You must sit down, says Love, and taste my meat:
        So I did sit and eat.

 

 

2016年8月28日の礼拝

タイトル「浸かる」マタイの福音書28章19-20節より

「父、子、聖霊のみなによって、洗礼を授け、、、」

有名なイエス様の送る言葉です。

この言葉、洗礼をするときに、牧師が語る箇所ですが、ものすごい祝福が含まれているのに気づいていますか?

WORSHIP ON Aug. 28.

The title is "dipped". from Matthew Chap 28 ver 19 and 20.

It is a tremendous blessing Jesus talked about!

Thank God!!!

8月21日「開く」

8月14日「つなぐ」

6月12日は、「赦される」というタイトルのメッセージでした。

私たちはもう神様に赦されているということ、知っていますか?

でもそれを受け取らないと効き目はでてきません。

神の赦しをどうやって受け取るか。考えてみましょう。

 

6月5日の礼拝は、1 John 4:11から、「愛の債務」というタイトルで、メッセージをさせていただきました。愛の債務という言葉から、皆さまはどんなことを想像されますか?

私たちは神様に愛の債務があるんです。

 

5月8日の礼拝は、イザヤ書46章3-4節から、「私が背負う」というタイトルでメッセージをお分かちいたしました。

「あなたが白髪になっても、私は背負う」と言ってくださるのが私たちの神様です。

私たちは神様のお荷物になっているのですが、神様はそんな荷物を捨てることはなさいません。むしろ、「あなたは私のもの、あなたを愛している、私の目に、あなたは高価で尊い」と言ってくださるのです。

 

こんな神様をもっていること、素晴らしいです。

改めて感謝をささげるとともに、さらにゆだねてまいりましょう。

 

"Praying hands" by Albrechet Durer

 

旧約聖書 土師記8章

ギデオンの300人の軍隊は奇跡を経験します。そして彼らの友のイスラエルの部族はギデオンの軍隊を助けるよう要請されます。

しかしエフライムや、ガド(スコテやペヌエル)の友は、言ってみれば親戚であるにもかかわらず、心よくギデオン軍を助けませんでした。

なぜなら彼らは、プライドや恐れに支配されていたからです。神の祝福が与えられているのを知りながら、神に頼るよりも自分の心にしたがってしまったのです。

私たちも神様からの祝福を受けながら、自分のプライドや恐れのために主にある友に冷たく接してしまうことがあります。

 

そんなとき、私たちを友と呼んでくださるイエス様を思い出しましょう。イエス様は、羊のために命を捨てる羊飼いでおられます。

 

アルブレヒト・デューラーの「祈りの手」という絵があります。絵描き

になりたいという同じ夢を持っていたアルブレヒト・デューラーとその友は、貧困のため、炭鉱で働かざるを得ませんでした。しかしそれは重労働で、絵描きになる勉強ができずに毎日を過ごさざるを得ませんでした。ある時その友はデューラーに提案したのです。4年間僕が働くから、その間君は絵の勉強に専念してくれ、そのあと君が4年働いて僕に絵の勉強に専念させてくれ。4年たって、アルブレヒト・デューラーの絵は売れるようになりました。でもいざその友の番になったとき、その友は炭鉱の仕事で指を痛めてしまい、絵描きになる夢を捨てざるを得なませんでした。しかしその友は、それでも、デューラーが絵描きとして成功したことを喜び、そのことのためにデューラーが苦しまないように祈るのです。

 

その祈りを知ったデューラーが描いた絵が、「祈りの手」です、彼らはどちらもクリスト者として、キリストに倣った生き方をしました。

 

私たちには真の友、キリストがいるのです。

キリストに倣って生きることを願いましょう。

詩篇を思う

詩篇 1篇

「いかに幸いなことか

 神に逆らうものの計らいにしたがって歩まず、

 罪あるものの道にとどまらず、

 傲慢なものとともに座らず。

 主の教えを愛し、

 その教えを昼も夜も口ずさむ人」 (詩篇1:1-2)

 

150ある詩篇の冒頭の詩の出だしです。

日本の聖書にはいくつか翻訳があります。私はずっと新改訳に慣れていましたが、場所によってすっきりとしないところがあります。この箇所も新改訳だと、「悪者」としています。NIV, NASBでもthe wicked となっており、それを踏襲しているのだと思いますが、ちょっと違う感じがしませんか。新共同訳だと上記のように訳されていて、気に入っています。ヘブライ語はrashaと言う言葉が使われています。悪者と言う意味もありますが、神に逆らうという意味もあります。

 

 「主の教えを心から愛し、昼も夜も口ずさむ」

そんな毎日を送るためには意図的な訓練が必要です。

まず少しずつ暗唱する事から始めませんか。

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